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yuuの一人芝居

yuuの一人芝居

随筆 風の路 2 

          
 何年かぶりに同窓会の案内が届いた。

学校と言うところにあまりいい思い出がないので喜んで行こうという気にはならない。この様な思いは同窓生の中にも沢山持っていると思う。学校を不快に思う人たちである。その人達はだからといって社会をはみ出して生きている人たちではない。まじめに生きた人たちに多いのだ。幼い心に刻み込まれた記憶はたやすく忘れられるものではない。
 昭和二十四年と言えば終戦して四年、日本が復興に努力していた時期である。みんな貧しくぼろを纏い食べ物に不自由をし暮らしていた時代である。セピア色の小学校の入学式の写真があるがみんなろくな物を着てないし履き物も草履や下駄である。先生は復員してきた人が多かった。代用教員もかなりいた。その人らを恩師に持っているのだ。先生というのが酷かった。授業中戦争の話ばかりして教科を教えてもらえなかった。勉強の出来る子と金持ちの子を依怙贔屓した。そんな中では勉強なんかできるはずもなかった。六年間遊んだ付けは中学校で現れた。勉強のできる子の後にいて遊んでいた子がこれでは大変と勉強を始めた。勉強のできた子を軽々と抜き去った。勉強のできた子はできると思っていただけである。みんなが高校受験の勉強にかかったら小学校で勉強のできた子は取り残されてしまった。唯依怙贔屓の恩恵で出来る子と勘違いをさせられていただけで実力はなかったのである。惨めだったのは依怙贔屓をして貰っていた子達だった。
 そんな教育をした先生を恩師と仰ぎ同窓会をする事になんの意義があるというのかと毎回思うのだ。発起人や幹事をしている友は依怙贔屓をして貰った子ではないのだ。寧ろ無視されていた子達である。彼らだって真実恩師などと思っているわけではなく多少社会で幅をきかし小銭を貯め込んで自慢の一つもしてみたいだけなのだ。そのような面々が名を連ねていた。
 教育環境の最高は教師自身でなくてはならないと言うのが持論であったからそうでなかった先生を恩師とは呼べないし顔を見るのも億劫であった。だから欠席と通知した。社会で幅をきかしている友は無視されていた故に今成功しているとするならば無視した先生は恩師なのであると言うことが出来るかも知れない。彼らは親の後を次ぐことも出来なかったから開き直り苦労をして実学を物にして個性を生かして地位を築いた。かわいそうなのは依怙贔屓をして貰った友で大きな錯覚をさせられ勉強も半端にしか出来ず努力もしなかったから社会で日の目を見ることは出来なかったのだ。その同窓は恩師を憎んでか発起人達に合うのが恥ずかしいのか出席をすることはなかった。
 同窓会の席で好々爺の様に笑みを浮かべている恩師達は今の現状を見てどのような心境であろうかと推察する。
「何々君はどうしているのかね」と勉強の出来た金持ちの子のことを尋ねた。あの子達ならかわいがったので立派に成長し社会的な地位を築いていると思って尋ねたのだが、
「どのような生活をしているのか連絡がありません」と無碍に返されて沈黙をした。小学校で幾ら勉強が出来ても甘やかされて育った子は上の学校で唯の子になると言う事は珍しいことではなかった。ここで自らの慧眼の曇りを気付けばいいのだがまだその頃の事が頭にあって納得はしないのが先生という職種なのである。金は経済の仕組みでなくなると言うことを知らず勉強が出来た子も誠実に努力をしなかったら社会から取り残されると言うことの認識は殆ど持ち合わせていない先生という境涯の彼らはそれを認めようとしないのだ。
 見る目がなかったと認めたくないのだ。罪作りを現実の歪みとして否定するのだ。今自分の前に立ち立派に振る舞っている彼らに屈服はしないのだ。間違っていても誤りを認めない性格なのだ。人間の悲しいエゴである。
 そんな恩師に同窓会でどのように対峙するというのか。酒が出ると今までの不満が爆発する。自慢話の応酬である。恩師達は痴呆症の患者の様ににこにこと微笑んでいる。てんでんバラバラの会の進行が続くのである。こんな時には時間の経つのが遅くなり何時終わるのかと終会の挨拶を待つのだ。こんな会なら出るのではなかったと思いながら帰路につくのだ。アルコールで麻痺している頭で幼かった頃の思いを振り返りほくそ笑みつつ苦い思い出を作ったと後悔しながら・・・。
 
 歳のせいか体力が衰えている

最近視力が衰え始めている。パソコンの字は読めるのだが薬の効能やいろいろの説明書の字がぼやけて読み取れない。めがねがなくては駄目な歳になったか、元々近眼であったが五十歳くらいでめがねをかけなくても免許更新が出来てそれからめがねをかけることがなくなっていた。小さな活字でも裸眼で読めたのだ。が今ではとてもめがねがなかったら読めない。歳であると言うことが眼に影響し衰えたのだ。耳は気圧の関係で響くようになっている。不安定な気圧の日には耳が遠くなるのだ。これは歳の関係でなく鬱の所為かも知れない。だが、おかげさまで歯は入れ歯ではない。歯だけは終わりまで自前でと思っているが・・・。早めはやめに医者に通って見て貰っている。
 通っている歯医者さんは近くで何代目かの太っている先生である。
歯医者にしても医者にしても相性と言う関係で成り立っている。同じ薬を貰っても相性のいい医師から貰うと治りやすいと言う・・・。相性とは信頼に通じるのかも知れない。内科は何処、目医者は何処、歯医者は何処、耳鼻科は何処とこの歳になると常にどこか悪いので決めている。緊急でない限りよそへは行かない。昨年かかりつけの目医者の先生が歳で閉院した。行って直ぐに診て貰えるというあまりはやっていない医院だったが今まで眼がおかしいと診察をして貰ったが適切な治療で直ぐに治っていた。人はその医院を藪だ株だと言ったが私にとっては名医だった。早くて安い、そして話が面白く、
「まだまだ大丈夫。眼底の血管は若いよ、両親に感謝しなくては」
と言葉を薬と一緒にくれた。今様の最新設備はなく古びた診察室だがなぜか安心感が生まれるものだった。耳鼻科も四十年診察室は変わらない。歳で何時閉医院するか分からない。
「手が震えたらやめるよ。今やめたらうちで働いてくれる人たちを路頭に迷わすからやるだけはやるよ」と言いながら闊達に胸を張る。
 医者さんとの交流が命を長らえてくれていると思う。有り難いと言葉を落とす。
 我が家は私のホームドクターにみんなかかっている。家族ぐるみの関係になっているのだ。
 歳を取ると言うことは医者さんと沢山知り合いになると言うことのだ。
 鬱に罹ったときには鬱と分からずに沢山の医院に出かけそれぞれの診察をいただき様々な薬を飲んだが効かなかった。心療内科にたどり着き薬をいただいて飲むと嘘のように効いた。薬は何でもいいのではなく病状にあった薬があることを知った。それでも二十年間は鬱と仲良くしたのだ。小説家で医師の南木佳士さんは小説を書くことで治したという。小説家の宮本輝さんは一人でいることが不安で何処に行くのも奥さんと一緒の生活をされていたのだけれどどうされているのだろう。その症状は鬱に間違いがない。最近は新刊も出ているから良くなっているのか。私の場合は台本を書き演出をして動き回り心療内科の薬を飲んだので良くなったのだが・・・。車の運転は出来なかったので隣にスタジオを建て練習を見るという大金を使ったけれども鬱の症状のつらさに競べたら安かったと言えるだろう。最近は鬱の症状を見分ける医師達が多くいて直ぐ治療をしくれる程有名になっているので治りやすいが昔は普通の医者達では見抜くことが出来なかった。羽田で飛行機が滑走路をオーバーランした機長が私と同じ薬を飲んでいたのが分かり鬱で飛行機を操縦していた事実を知り、またそのことで鬱という病名が広く世間に認知されることになった。
 遊び人でも鬱になるのだから誠実に仕事をしている人は尚罹りやすいと言う事になる。今鬱の患者が沢山いるが、横着病と言われたら診療内科を訪れることである。
 鬱の苦しさは鬱になった者しか分からない。
 今、どこかが悪いと言っても良くきく薬があるし・・・。眼が衰えた、耳が響く、喘息が、血圧がと言っても鬱の何とも言えない気分に競べたら辛いが耐えられるように思う。
 今日、一ヶ月に一度の診察日、血圧と胃の薬と安定剤をもらいに行くのです。鬱の安定剤は今でも飲んでいます。
   


食欲の秋

 読書の秋とか芸術の秋とか人は言うけれどやはり食欲の秋。
「夏痩せもせずそんなに太っていても食欲の秋ですか」と人は言うけれどやはり食欲の秋なのです。何でも美味しく食べられると言うことは健康の証と思っているからなのです。
 次男が結婚して家人と二人だけの食卓、料理を作るのも侘びしい二人前の食材。だから余計に色々と贅沢をすることなく工夫をして作るのです。この夏の暑さには体がついて行けずにスーパーで弁当を買って来て夕餉にしたり、洒落たレストランに行き海老やハンバーグやカツを頬張ったのです。年寄りが食らうといつてもたかが知れていて二千円もあればおつりが来るようなものを食べたのだ。たまにはいいものだったが、それはだんだんと飽きて満足できなくなるから人間の性根というものは度し難い。外食をするために外に出るのだが色々と迷って決まらず家に帰りそうめんを食らうと言うこともしばしばであった。
 買い物好きだから食べたいというものは冷蔵庫や冷凍庫の空きを考えず買うから何時も一杯で家人に文句を言われるのだ。
「冷凍して秋に食べるために買いだめをしている。このような気候変動の世の中では何時なんどき食材が不足してもおかしくはないからして備蓄をしているのだ」と、終戦後の食料不足を経験しいているからついついそんな言葉が突いて出る。冷蔵庫に、冷凍庫に食材が一杯詰まっていると言うことは我々の世代では至福なのである。
 そういえば夏にはあまり食べなかった飼い猫の九太郎が最近よく食べるようになった。こやつも秋の気配を腹に感じて食欲が増したらしい。こやつは今まで何遍も尿路結石を繰り返しその都度犬猫病院の玄関をくぐり福沢諭吉を何枚も使うという困った病気持ちなのである。だから予防食をあてがっているのだがそれがまた高いのである。二キロ入りが三千五百円、私の一ヶ月の治療費が三千四百円なのであるから同等なのである。安い猫食を食べさせるとたちまち小便を詰まられてのたうつからやれない。犬猫医院へ連れて行けば血液検査やカテーテルで膀胱の血尿を抜くために福沢さんと別れなくてはならないから三千五百円を安いと思うことにした。そんな九太郎が秋の気配を感じて猛然と食べ始めたのだ。食欲の秋を実践しているのは最初は彼であった。
「糖尿が喜ぶ体をしていますね」と太っている体を見てかかりつけの大先生は常に口にするがその気配は今のところないのだ。院長からは検査をしますかと言う言葉を聞いたことがない。密かに毎日ドリップで入れた珈琲を十杯は飲んでいるのでそのおかげなのかも知れないと思っている。
 何でも美味しくいただける秋、秋だけでなく年中なのである。
 鬱を患っている人は大概太っているものなのです。心療内科の待合いには太っている人たちで一杯でした。年中物思う秋だけではなくあてがわれる抗うつ剤を飲むと副作用で太るのです。鬱はうつるのかと、夫婦が鬱の患者をたびたび見かけましたから。うつるのでなく仲が良すぎるのでしょう。うつることは決してないのです。
 鬱のなれの果ては今秋を感じてよりものを美味しく食べています。十三キロのダイエットをキャベツでしましたがすっかりともに戻りました。今太っているのはまだ精神安定剤を飲んでいる所為にして太っても気にせずに美味しいものを食べようと思っています。時に読書をしてみたりして・・・。暑かった夏に決別して秋を楽しみたいと・・・。


車の話

四年前に大きな車から軽四に乗り換えた。昭和三十年代の後半の車と競べたら高級車並みだ。その頃の車はウインカーは直ぐ壊れて曲がるのに窓から手を出してウインカーの代わりをした。ワイパーも付いているが動かなくなってぞうきんでガラスを拭かなくてはならず、坂道ではのろのろ運転をし、ブレキーはダブルに踏んでもあまり効かなかったし、チェンジはなかなか入らなかったりした車であった。中には雨漏りのするものさえあったのだ。嵯峨の渡月橋の上をスターがダッチを得意げに走らせていた時代である。アメ車も良く故障をしていた。
 家人をのすだけなら軽四で十分と買い換えたのだ。なかなか買い得でこれなら遠出も出来そうで瀬戸大橋を渡って墓参りをした。よく走るしスピードが出ても重心を道路にへばりつかせて安定する仕組みになっていた。これなら何もプリウスを買う必要もないと思った。車がなぜ必要かと言えば持病の鼻と喉の治療に毎日行くためであった。歩いても二十分という距離なのだが鬱がまだのこっていて不安だった。
「車でなくても電動補助自転車にしたら」と家人が言うがそれには二人乗りは出来ない。家人とたまにチャイルドシートを付けて孫をのせ病院へ行ったり買いものに行ったり出来ればいいと言うことなのだ。
 退職して大きな車を買う人が多いがそんな見栄は当方は持ち合わせていないから軽四でへっちらである。年寄りは運転が下手になっているので万一の時を考えれば大きな車に限ると心配してくれるがよけいな世話である。そのときは立派に往生して見せようというものである。たかが数キロの耳鼻科へ行くのにまだまだ腕は衰えてはいないと啖呵を切る。何も高速を百二十キロで走るのではないのだから。軽四に乗り始めて性能のすばらしさに感心しいる。それは昔の車と比較しているのではない。四年間一度もトラブルがないのだ。
小さくて安いしよく走り燃費もいいとなれば文句はない。小さいと言っても普通運転免許を取ったのはこれくらい大きさの昔のダットサンであったのだ。自動車学校もなかった時代一発で取ったのだ。
 最初に買ったのがコロナ、次もコロナのハードトップ、家人を乗せてよく走ったものだ。ガソリンは食ったがよく走った。次に買ったセリカは良く追突されて相性は良くなかったので直ぐにマーク2に買い換えた。これは横腹に追突をくらい半年病院通いをした。鬱の原因がここにあったといえる。数年後鬱の症状が現れだした。最後はクラウンというコマーシャルが流れていた時期であった。鬱の症状では車に乗るのが難しいがスカイライン、トップエース、マスターエース、マーク2、コロナ、サニー、トリノ、フロンティ、セルボ、ミニカー、スターレット、カローラ、ロゴ、ローレルなど常に二、三台持っていた。駐車場に持ってきて貰って欲しいと言うことで貰ったものが多かったのだ。最後はクラウンとは行かなかった。クラウンは好きでなかった。人相の悪いおっさんが乗っているとやくざに間違われるおそれがあった。一人では不安で乗れないから家人を助手席に乗せて走った。今でも時折うつの気配を感じて家人に声をかける。鬱が良く為りつつあっても大きな車に乗ることはしなかった。一人で乗るのだからそれ相当でいいと思っていたからだ。大きな車に乗りたいと思わなかったし興味がなかったといえる。走って目的地に着けばいいという考えだった。走れば何でも良かったのだ。再発売をしたセルボを買ったのです。最初のセルボは好きだった。マーク2を乗らずにセルボで親子4人がのってよく走ったものだ。坂道などぐんぐんとスピードを上げて登ってくれた。それ時のことが頭にあり買ったのだった。
 車社会もう後どれほど持つか・・・。車は人類が発明した最高のものである。が、あってもなくてもいい時代が来ようとしているのは確かであろう。だが田舎都市にはやはり必要なものだ。電車がないバスはないあるのは自転車くらい。都会の車離れが顕著だと言うがそれは当然だと思う。乗り物は幾らでもあるし車を持っていると九種類の税金を払わなくては乗れないのだからそれが最良だろう。地方の人はそれに任意保険を払って十種類の税金と保険の支出で乗らなくてはならないのだ。車に対してこんなに税金を払っているのは日本くらいだ。贅沢で金食いだ。電車の環状化とか定期バスの増便、自転車道路の整備、をおろそかにしているのは国民に車を使用させて税金をふんだくるためなのかと邪推したくなる。大臣どもは専用車に乗ってふんぞり返ってほくそ笑んでいるのだ。年給一千万円の運転手の運転する車に乗って国会議事堂へ登院しているのだから国民の事などわかりゃしないのだ。
 我が家をリフォームをするときにクラウンを一台ぶつけた。車をぶつけて使えなくなったと思えばリフォームの金は安かった。大きな買いものをするときには車をぶつけた気になって命があるだけ丸儲けと思うことにしている。孫達が大きくなっているので増築をしなくてはならないが今度はどんな車をつぶけてつぶそうかと思案である。
 今は運転しているが後何年車を転ばすことが出来るだろうか。今その予兆が出てきている。駐車がまっすぐに出来ないと言うことなのです。そろそろ運転免許の返上を考えなくてはならないのか。
 四十年前、一日一万円のハイヤーに乗って東京を走り回っていたが地図がさっぱり分からなかった。歩いてみると直ぐ地理は理解できた。
 人間には足がある。これからは歩くに限るのか・・・。年寄りの冷や水だが・・・。


年寄りの冷や水

「頭から水をぶっかけられたようで目が覚めた」
 何か良くないことを夢中でしていてそれに気づくことをそのように言う人が多い。年寄りには年寄りの冷や水と言う言葉がある。年寄りの冷や水とは歳を考えずに色々と出しゃばることらしい。
 今の年寄りは七十五歳くらいからか、それまで矍鑠とした年寄りが多い。昔の五十五歳ぐらいにしか見えないのだ。五十五歳で定年だったから後の時間をどのように生きたのだろうかと言っても今の様に長寿ではなかった。平均寿命が六十幾つという時代であった。その頃の人たちは戦争を挟んでいたからろくな物を食べていなかった。サツマイモでも食べられたらいい方で麦飯のお粥をすすりうどん粉を練っただんごを味噌汁に入れて食べていた。結核が死の病とされ、脚気やトラホームが多かった。栄養失調は慢性であった。
「飯食ったか」が挨拶言葉であった。
 そんな時代を一生懸命に仕事をし家族を支えたのだから老後は安穏に過ごせたかと言えばそうではなく僅かの年金で細々と生き六十歳を過ぎて逝った。
 そんな時代があったのかと思う人も多かろうがあったのだ。
 みんなが食えない時代の後、高度成長があり三種の神器を買えるようになり豊かになっていった。が、そこで日本人は大切な物を置いて成長したのだ。貧しかった頃には友を思う優しい友情があり、未来への夢が沢山転がっていたのだ。が、金を儲けるという裕福さだけを求めだしたのだ。自分のことしか考えない生き方を物にし出すと他人のことなどどうでも良くなり自分の利益にならない物は斬り捨てていった。学問を身につけることが財産をもたらする原点だとすると親はこぞって我が子を学校へ入れた。子供の言い分など聞かなかった。
「学校を出てなかったから出世もできなかったのだ。おまえだけは学校へ行き成功し金持ちになれ」子供の才能や学力を置いて行かせた。勉強について行けない子らはそこで挫折をした。先生達も教育の最高の環境ではなかったので見ているだけであった。
 行ってみればそれが今まで続いている。今の方が酷いかも知れない。自分の学力のことなど忘れて学校へ行きたがる子供達が増えたという点で。その程度の子が大学を出てもろくな就職口があるはずもなく挙げ句の果てにフリーターやニートになって失業率を上げているのだ。昔と違って親やが裕福だから親にぶら下がって生きている若者のなんと多いことだろう。
 他人はどうでもいいというのは、昔貧しかった頃の辛苦を供にした人たちをいとも簡単に遠避ける傾向がある。「なんとか賞」なる物を貰うと今までの仲間を捨てるのだ。つまり過去を分からなくするために自分の過去を知っている人は都合が悪いのだろうか。女たらしがばらされるとか、交通事故で子供を殺したとか、無学だったと言うことがばれるのが怖いらしい。自分の悪い噂を遠避けて守るのだ。これは教育でなく人間の有りのままの姿であるらしい。
 芸人は過去の貧しかった境涯を売り物にするしそれを創作する者がいるが、私のかつての友の絵描きや物書きは喋られたら困るらしい。
「良かったね。苦労が報われて本当に良かった」と逢ったら言おうとするが顔を背けられる。苦労をして賞を物にしたのなら少しは人間として成長しているかと思うがそうではない人たちが多い。なんと世知辛い世の中なのかと。そんな人間が文学賞をとっても後にろくなものを書けはしないと思うのだが。その心の狭さで今審査員をしているのである。真実を読み取れるのか疑問である。これが世の中という物であることを知った元になっている。何が狂わせたのか、何か悪いことをしたというのかとこちらが心痛めるのだ。知識人ですらそのような現実なのだから外はおかしくなっても不思議ではない。親や先生の教育の所為ではなく文学的な生活をしなかったからなのである。 
 昔、私のいたころの東京は山の手線は朝夕の通勤時間を除けばがらがらで何時も吸われ寝過ごして一周することが出来たが、今はウイークディーの何時の時間でも満席で座ることすら出来ないのだ。それだけ親のすねを囓って生きている裕福な家庭の若者が増えていると言うことなのだろう。漢字も九九も分数も出来ず名前だけ書けば合格出来る大学がなんと増えていることか。そんな子らにもその子しか出来ないことがあるのだから大学へ行かすよりその路へ行かせた方がいいと思うが親としたらそうはいかないらしい。夜中にパートをしてそんな倅のために働いている親の姿を見るのも辛い。そんな大学が増えた分だけ教育助成金がみんなの税金で払われているのだと言うことを殆どの親や子も知らず親は自分が大学を出したと思っているのだから救われない。子も親が出してくれたおかげで大学を出ることが出来たと思い世の中に帰そうという気にはさらさらならない。中学校や高校を出て働いている若者から税金を取るなと叫びたい。かたや大学へ行き勉強もしないで遊んでいる学生は彼らが納めた税金を無駄遣いして遊んでいるのだ。おかしくないか、矛盾していないか、これは憲法違反ではあるまいか。大学を卒業する二十二歳まで若者は無税にすべきでではないか。中には國のために勉強してみんなを幸せにすると勉強をしている者もいるだろうが大半はそうではないのだ。子供手当で少子化がどうにかなるという物ではあるまいし高校無料化で高校生の学力が上がるとは信じがたい。ある基準に達している子に無償の奨学金を出し心おきなく勉強が出来る環境の整備こそが必要ではないか。待機児童の保育園や幼稚園があることがおかしい。子供手当で無料化のそれらを作るべきなのだ。ややこしい役所の権限を取り払えば直ぐに出るはずだ。
高校の無料化など高校までを義務教育にすればいいのだ。だが財政的に無理な子は夜間高校もあるし通信教育もある。大検もある。
 まず金儲けの大学を減らすこと。学校法人を減らし新しい法人は認可しない事なのだ。
 いままで沢山の人たちと演劇作りをしてきたが、第一義に人間教育を掲げた。演劇も教えたがまず挨拶を徹底的に仕込んだ。集団が出来ればそこには演劇が行われるのだ。演劇をする前に人間のなんたるかを知らないと表現が出来ないのだ。勉強もみんなで勉強をした。発生練習に九九を歴史年譜を化学記号を入れた。台本は子供達にも難しい漢字を多用して辞書で調べさせた。今それぞれに立派な社会人になってくれている。
 一芸の人もいる、漢字が読めなくても絵だけはうまいとか音楽的素養がある。手先の器用な子もいる、それらはそれぞれの路に進めばいいことなのだ。一芸の大学がある。その才能を見つける眼が現代の教育現場には失われていると言うことだ。
 これは悲しい現実ではある。
 昔こんな事ばかり書いて読者から抗議の投書を貰い水をかぶせられたのだが・・・。
さて、ここまで書いて頭から冷水をかぶって休むとするか・・・。
 

言葉が分からない・・・

生きるために必要な物とは尋ねられてはいそうですかと 答える事の出来る人はそんなにいないのではないか。
「命でやしょうか」「金でしょうか」「空気でありやすか」「水でしょう」「連れ合いです」そんなに咄嗟に出てくるものではない。人それぞれに違った言葉を返してきた。ことば・・・と書いてはたと考えた。生きるために必要なものは言葉。人は一人では生きられないから言葉が必要だ。みんなが共通に使える言葉が、意思を伝える言葉ではなかろうかと気がついた。
 歳を取ると記憶の倉から引き出すのに時間がかかる様になる。分かっているがなかなか実像と言葉が重ならなくて間違った言葉を発してしまう事が多い。すんなりと思う言葉が出れば誤解も少ないが、言葉がうまく出ずに気まずい思いをすることもしばしばあるだろう。言葉はゆっくりと思い出すように喋ることにしている。書くことにおいては間違うこともなく言葉を選べ直ぐに頭に浮かぶのだが。
 生きるために必要なものとして言葉を選んだが皆さんはどうか。  何んと答えてもそれらはすべて正解と言うことなのです。
 言葉と同じで昔から心に引っかかる問題を抱えています。
 もう四十年も前の事でしょうか、私の住む倉敷水島は工場の煙突が数十本も林立し五十メートルの炎を一日中あげていたときの話です。その下では夜に新聞紙が読め私のところからは夜空が真っ赤に焼かれて毎日大火事の空を眺めているようでした。全国からオルグとして沢山の人たちが来ていました。彼たちはこれからどのように対抗する運動を展開するかを協議していました。参加した漁師の方は、
「排水溝にコンクリートでも流し込むしか方法はなかろう」
「むしろ旗を掲げてのデモじゃ」
「くそうてどうもならん魚を県庁の玄関と工場の玄関にばらまいたらどうじゃろう」
「署名運動はどうかの」
 この言葉に何の力もなかった。全然伝わらなかった。言葉は相手
に伝わらなくては必要なものにならないのだ。すったものだと言葉の応酬をしても平行線では言葉が生きていないということなのだ。それは突き詰めて言えば双方に言葉がなかったということなのだ。むなしいやり取りの言葉ほど疲れるものはない。
「知りません」「わかりません」という言葉がまかり通っている今の世の中は死語が行きかっているということでそれを容認している
社会は終末に近いということなのかもしれない。感情的な言葉のやり取りは言葉であって言葉ではないものになる。あるる思いと心の入っている言葉には程遠いものなのだ。それを言葉とは言いがたい。
 倉敷水島では次の会話にならない言葉のやり取りが続き、
「責任を取れ」「責任はない」との応酬がむなしく響いていた。
 そんな中、小さな支援グループの人たちと知り合った。都会から数人で公害反対運動をしている人たちであった。事務所を開き電話だけ引いた侘しいところだった。資金が潤沢ではないことはすぐにわかるところだった。大学生らしかった。学生運動の崩れたものであったろう。
「運動資金がなくなって困っています。どうかこの本を買っていただけませんか」と公害に関係した本を持ってきていった。
「明日運動に必要な電話を止められるのです。お願いです」細面の端正な顔つきの青年は言った。頭を下げることはなかった。そんなに困っているのならと思い言い値で買った。そのときが縁で読みもしない小難しい本を何冊か買う羽目になった。
 この土地の人たちが尻込みをして反対運動もしないのにわざわざ遠くから支援に来てくれていると思うとむげには断れなかったのだ。
 了解、納得には言葉が生きていて伝わったものだ。
「あの、売る本もなくなったので外にまたしている女を買って貰えませんか」この言葉には驚くと同時にあまりにも重過ぎた。
「そんな、そんなにしてまでこの水島の公害反対運動をする意義があるのですか」
「私たちがここへ来ているのは半端なものではないのです。使命を持ってきているのです」
「今のようでは使命も何もないのではないのではありませんか」
「だから女も男も体を売るのです」
「そこまでしても・・・なお・・・」
「ここでなくてもどこでも良いのです。実践の限界を試しているのですから・・・。何ができるのかをためしているのですいから、どれだけ人間は耐えられるのかという」
 この青年たちは女の子の売春によって運動を続けていたのだがいつの間にか消えていた。
 言葉が通じない社会になりつつある。とそのときにも思った。それは世代の相違でなく考え方の違いだった。売春しても電話代を稼ぎ運動を続ける、今になっては菩薩のようにも思われるが、操を売っても続けることに意義があったのかは疑問であるが・・・。
 また、大臣の名刺の裏にこの者をよろしくと書いたものを持って公害企業を訪ねあるきタクシー代を稼いでいた業界紙の人たちのことも言葉が通じなかった。
 いろいろのことばが氾濫していた時代、今もあまり変わらないが・・・。
 意味はわかっても言葉が通じなかったなと今も思っている。  

 夢が誘うもの

 このところ良く夢を見る。それも二十代の頃の夢なのだ。最近のことは思い出さないが、夢にも見ないが、昔の事は良く覚えていると言うが大変リアルなのである。若かった頃の懐かしいものばかりなのである。夢に出てくる人たちからは疎遠され無視されるという者が多い。そんなに我が儘であった覚えはないのだが。
 若いころ半年働いて三ヶ月間は失業保険を貰いながら生活をしていた。その間本を読んだり原稿用紙に文字を埋めたりして暮らした。物書きになると言う目的でなく好きでやっていたのだ。たまたま同人誌に書いた作品が「文芸」同人誌批評をしておられた作家で評論家の中田耕治さんに取り上げられたりして、また、会の主宰者の直木賞候補作家の小林実さんに「この作品は中央の文芸誌に発表しても遜色はない」とほめられても物書きになるには遠く厳しいことくらいわかっていたから好きでやればいいと構えていた。確かに六ヶ月残業をしてたくわえ三ヵ月文学の世界の浸り続けて小説家やシナリオライターになった人は多かったが、その真似をしても物書きにあこがれてもなろうとは思っていなかった。これで何か生きるきっかけがつかめればというものだった。不可能な夢に浸るほど裕福ではなかった。半身不随の母の面倒を見ながら生活をしていたのでこのような生活をすることは無謀であることはわかっていた。かすかに心のどこかに物書きに成れたらいいなという願望はあったのかも知れなかった。新派の北条秀司さんが新しく出す雑誌の仲間を募っていると聞いて仲間に入れてもらった。テレビドラマ「判決」を書いていた高橋玄洋さん、本田英夫さんらがいた。
 そこでいろいろと教わったものが後に台本をたくさん書くことになるのだがその影響は色濃く残っている。新派の泣きの芝居になるのを成らないように書く努力は大変な作業であった。その会に入ったのも台本の書き方の勉強のためだった。それから「シナリオ学校」の通信課程にはいり本格的に勉強をした。後に推理作家になった赤川次郎さんや歴史文学賞をとった松本幸子さんは後輩になる。
 戯曲と小説を同人誌に載せてみんなの評価の俎上を仰いだが戯曲はほとんどの人にわかってもらえなかった。「女流文学賞」をとった梅内ケイ子さんとは毎回小説の懸賞出していた。そのころから物書きに成れたらいいなという淡い思いがわいてきていた。毎夜の十時ごろに電話が鳴って朝の五時ごろまで、梅内さんが電話の向こうで作品を読むのを聞かされた。黙って聞いていると、
「ここんところがおかしいのやね」と自問して続けるのだった。
「ここまで来たら世にでなあかんよ」と常に励まされた。二人はあらゆる賞の一次や二次は常に通過していた。時には最終ということもあった。
 志茂田景樹さんに振り落とされ、宮本輝さんには足蹴にされた。文芸春秋にどうして落ちたのかを電話すると読んでくれていた編集長が出てこられて、
「志茂田景樹さんの小説を読んでみてください。そうすればわかりますよ、テーマが暗すぎました。賞と言ってもこちらも商売ですので売れるものを取ります。これに懲りずに応募をお願いいたします。
才能はありますので期待しております」という電話の声がした。その電話が道を迷わすことになった。だめです才能はありませんといわれたらあきらめて備前焼の作家へ華麗なる転進をしていたかも知れないのだ。「太宰治賞」の宮本輝さんの作品を読んでノックダウンをさせられた。
 そのころ家人と結婚していて二人の子がいた。そろそろ潮時かと考えた。この一線が越えられなくて一生文学青年で過ごした人は多くいた。それでも時折応募はしていた。小説入選と脚本賞が転がり込んだが物書きの苦労と辛さは身にしみていた。
 今までのことはみんな夢なのだと、気ままに好きでものを書くことに決めて子供たちのオシメを洗い夕食をせっせと作った。車に乗せて子守に専念した。
 暇なときに新聞小説を書いた。随筆も連載した。書いている間生きている気がしなかった。重圧がひしひしと襲った。
 夢の中で欝の症状を体にきたしのしかかられていたのを気づかずいた。
 何もかもそこで終わりだった。
「おい、生きとるか、今度の青年祭の台本を書いて欲しいねん」と演研の土倉さんが顔を見せるまで、欝の世界を堂々巡りをして夢を見ていたのだった。
 夢を見ることはすばらしいが分相応の夢を見るに限ると今は思えるのだ・・・。


風呂敷包みの中身

人は大きな風呂敷包みを持っていると感じたのはこの歳になってだ。いろいろな物を一杯入れて背負っているのだ。それは今までの物とかこれからの物なのだ。沢山入っている人が賢者で立派とは言えないし少ない人が愚者でつまらないとも言えないのだ。要するに中身の問題だと言うことか・・・。
 遊び人である私は意外と大きな風呂敷を担いでいる。それも中途半端な物がずいぶん多い。偏った物を入れていると言うことなのだ。誰でもそうだが好きな物を入れているのだ。サラリーマンを長く続けた人たちは幅が狭く規則正しく袋に入れている。まじめに生きた人たちも同じである。が、いろいろな経験や多少路を外れている人は沢山入っている場合が多い。それは喜びであったり苦悩であったり感情の起伏の大きい物が入っていると言うことだ。一つの物に拘って生きた人は細くて深い物である。
 人はそれで満足していればなんの文句もないのだが、こんなものじゃないという思いこみと向上心が平常心を妨げる。それも風呂敷に入れる。だから今の人たちの風呂敷は一杯なのだ。不平と不満という負をいれているのだ。歓喜は軽いが負は重たいのだ。だから重い風呂敷を負っていることになる。みんな風呂敷に入れすぎているのだ。それだけ生き方が多様になったと言える。風呂敷の中身が多い人ほど苦労が絶えない。単純に考えればいい物を複雑に考えてややこしくしてしまう。風呂敷の中身を沢山入れて生きたい人はそうすればいい。研究をしてノーベル賞を貰えばいい。風呂敷の中身をすっきりとしておきたい人はフリーターでもニートにでもなって自分の人生はこんな物だと開き直り欲心を捨てればいい。そんな人が増えたら国庫に入ってくる税金が少なくなると政府は余計な心配をして雇用対策に力を入れ職につかせようとする。人はそれぞれ生き方があるのだ。百万円あれば暮らせるという人は百万円稼げばいい。それでいいではないか。満足している人に金儲けの仕事の世話をする必要があるのか、いらぬお世話な事だ。その日の飯代だけを稼ぐその日暮らしはやったらやめられないものだ。人並みの生活それはそれぞれなのだ。それが自分の風呂敷だからだ。人は自分の風呂敷を過大に評価して不幸になることが多い。
 好きなことをして生きている芸術家はまず欲心を捨て皆様にご迷惑をおかけして申し訳ないという気持ちを持たなくてはならない。好きなことをして芸術品を万一作ることが出来たらそれを寄贈する位の気質を持たなくてはならない。世の中に対して益になっていない生き方をしたのだからせめてもの恩返しである。そんな風呂敷を持っている芸術家はまれである。好きなことを続けることが出来た事を自らが喜ぶのではなくみんなに喜んで貰うには芸術家を自認している者は社会に対して返すべきものがなくてはならない。自分勝手に生きて創作に打ち込んでいるのだからたまには上等なものも出来るだろう。
「すいませんこんなものしかできなくて」と頭をかきながら言うくらいの謙虚さが欲しいが、功績が評価され勲章など貰うのは芸術家のもっとも嫌うことでなくてはならないのにこにこと笑って喜んでいるようでは風呂敷が小さいゆえんなのだ。私は芸術家より腕のいい職人芸を買っている。作る物は同じなのに芸術家と職人の何処が違うというのか。とにかくものつくりが先生とか、作家とかなること事態がおかしくないか。江戸時代の職人を考えて欲しい。あれほどの仕事が今の芸術家に出来るのだろうか。芸術家と思い上がるのもいい加減にして欲しいものだ。好きな事をして生きると言うことは自分の勝手である。世間に迷惑をかけていないからいいだろうというのは詭弁なのだ。人は風呂敷の中身でそれ相当の社会奉仕をしているものなのだ。あんなに苦労をしてと同情をする必要さらにない。好きな事をして生きているのだから寧ろ苦労はあたり前であり勲章より重いかも知れないのだから。世の矛盾に対して立ち上がらない文化人という偽文化人にもそれは言えるのだ。邪魔をしないで勝手に生きてくれと。牢獄で叫んだかつての芸術家や文化人は今の現状をどのように思うだろうか。
 私は長嶋茂雄、野村克也、星野仙一は嫌いだ。名をなし功を遂げれば世の中に返さなくてはならない物があるはずだ。知る限りこの人達にはそれがないからだ。風呂敷の中身は金なのだ。安物の名誉心なのだ。
 人間の最大の特質は忘却することである。と言うが人はなかなか忘れようとしない。忘れなくてはいけない事を忘れずに忘れたらいけない物を忘れると言う事をする。肝心な事は忘れるのだ。覚えていても忘れた格好をするのだ。自分の都合のいいように風呂敷の中身を使い分けるのである。まあ、それが自己保身という事なのかも知れないが。
 鬱を患ってからは風呂敷に入れる物がなくなった。なにも考えられないからである。考えていたら行き着くところまで行き死を選んでいたかも知れない。今これで良かったと思っている。そうでなかったら人として大変な過ちを犯しているかも知れないから・・・。



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